【「日向・富高の一本松」検証その1:前段(美々津町と門川町の松並木)】

2025年3月15日頃より約一週間かけて、日向市・新町商店街のエリアでまだ街路樹の無かった本町(宮崎銀行~西の丸までの区間)の植樹がおこなわれました。日向椰子園さんの担当した駅前交差点周辺および上町からの流れで、この本町にもシマトネリコという植物が植えられました。これをもって、南町から都町までの新町通り(旧道)の街路樹整備は一段落したように感じます。

平成に入ってからの区画整理事業で新町商店街のメインストリートは拡幅され、こうした街路樹を植える空間が出来ましたが、昭和の頃までは自動車が離合する(すれ違う)だけの道路幅しかなかったと思います。そんな狭い道に街路樹を植える余地はなかったでしょう。現在、日向市内の街路樹と言えば旧・日豊旅館周辺~高見橋~中原(なかばる)の交差点にかけての草場大曲線(くさば・おおまがりせん)のクロガネモチ(かつて昭和後期の頃はヤナギ)、中原橋の南詰~比良児童公園辺りにヤマモモ、中央通線(駅東口から富島高校やトライアル日知屋店方向へ)のクスやナンキンハゼ、船場町から新開橋にかけてのワシントニアパーム、長江(ちょうこう)団地~大瀛(たいえい)橋付近にイチョウ、等々、多種多様ですが、それらは主に戦後になって新たに整備・開通した道路沿いに植えられたものがほとんどではないでしょうか。

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<富高の街道沿いに存在したとされる松並木>

遥か以前、江戸時代の富高村に、街路樹の文化がありました。その頃の富高地域を通る道と言えば、それなりに整備された「街道」(かいどう)といわれるような大通りが一つ二つある程度だったでしょう。その道沿いに「松の木」が植えられていたといいます。

富高地域における街道(のち国道、現在の県道226号/土々呂日向線)の道路幅は、平成初期頃までそれほど広くなかったと思います。しかし江戸時代、人々はもっぱら徒歩で移動しており、時に馬車や荷車(にぐるま)あるいは駕籠(かご)などとすれ違ったとしても、当時の町民にはその道路幅で十分対応できたのだと思われます。なお、街道の途中に架かる「塩見橋」が木造橋だった頃、馬や馬車とすれ違う際に歩行者が避難できるスペース「馬除け場」(うまよけば)が橋の途中に2ヶ所ありました。平成13年に完成した現在の塩見橋にも、往年をイメージさせる休息スペースがあります。

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<美々津の松並木>

富高の「松の木」事情を話す前に、同じく街道沿いに松並木があった「美々津町」について少し見ていきます。江戸時代、美々津町は高鍋藩に属していましたが、その当時をみていくと「美々津町一帯は、もと野別府村といっていたようです。それが正徳年間(1710年代)ごろ上別府村、田ノ原村、落子村の三村となり、1872年(明治五)にその三村が合併して髙松村と呼ばれるようになりました」(「日向市の歴史」P.185)。髙松という地名や美々津が海沿いの港町であることも併せて考えると、その周辺には松の木が充実していたのではないかと想像されます。

美々津の松並木に関連する記述をひとつご紹介します。大正期の半ばから乗合(のりあい)自動車[※または乗合バス]が宮崎県内で営業を始めますが、美々津の渡し場のやや上流付近に「美々津橋」が完成するのは昭和9年の事であり、それまで幸脇~美々津間を陸上から越える手段は考えられず、乗合自動車はなんと「渡し舟」を用いて耳川を渡っていたようです。作家・徳富蘆花(とくとみ・ろか)の著作「死の蔭に」(大正6年)の本文中に、彼が延岡から宮崎へ向かう際に利用した乗合自動車の様子が描写されており「自動車は有蓋(ゆうがい)の十二人乗、ガタ馬車の後には勿體(もったい)ない乗心地である<中略>、美々津に来た<中略>、皆自動車を下りて渡舟に乗る<中略>、自動車が舟で渡って来る間に渡頭の立磐(たていわ)神社に詣でる<中略>、首尾よく川を渡った自動車はまた一同を乗せて、松並木の街道をひたすら南に走る」とあります。大正当時の美々津には街道に沿って立派な松並木が続いていたことがうかがえます。



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<門川の松並木>

良い機会なので、日向市の北にある「門川町」の松並木情報も少し付け加えます。県文化財委員・石川恒太郎(つねたろう)さんの新聞連載「県北風土記」第102回では、同氏が大正時代前半の中学生(現在の高校生に相当)だったころの思い出と共に「小原」地域を紹介。以下一部引用します。「門川町の小原(こばる)は、国鉄・門川駅の西方で、大正時代ごろは国道の両側に大きい松の並木があって、その間に道路の西側に茶屋が一軒あった。客馬車の駐車する所で、富高(日向市)から延岡に行く客馬車はここでとまり、馬車曳(ひ)きは馬に水を飲ませた。その間に、茶店のばぁさんが菓子と茶を客に出すのである。旧制延岡中学校に在学していたころ、私たちはこれを『小原の茶屋』と呼んでいた。寄宿舎(明徳寮)にいたので、土曜の午後一時ごろ帰宅の許しを受けて寮を出て、友人たちと五里半(約22キロメートル)を歩いて家に帰るのであったが、この小原の茶屋に休んで菓子を食べるのが楽しみであった。」 (「県北風土記」(102)地名の由来・小原/夕刊デイリー)。なお、小原は現在の東栄町で、小原茶屋は鳴子橋付近にあったそうです。


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(「日向・富高の一本松」検証その2へ続く)

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