【「日向・富高の一本松」検証その2:(江戸~明治期の富高を通る街道について)】

●<富高の街道沿いに松並木があった話>(参考文献「日向市の歴史」ほか)

さて、ここからは富高の松並木風景、そして一本松について見ていきます。昭和48年に日向市制二十周年記念誌として出された通史「日向市の歴史」の162ページに、富高を通る江戸時代の街道についての記載があり、そこに松並木への言及が見られます。

一部を引用しますと「富高新町(とみたかしんまち)は富高村のうちで、いまの上町、本町、中町、南町がそれにあたるでしょうか。往還道路二二町、幅三間といいますから、北は小松屋(※昭和48年当時)の北隣りから南へ、もと岡村病院の北隣りごろまででしょうか。あるいはもっと長いかもしれません。横町(よこちょう)は高見橋までです。道路の左右には松並木がありました。おそらく、この松並木の道を、参勤交代の大名たちが行列をくんで上りくだりしたことでしょう。」

この中で書かれている街道の範囲は、現在の新町(しんまち)商店街のメインストリートつまり県道226号線(または土々呂日向線)のことで、旧小松屋付近とは本町交差点付近のことですし、岡村病院の北隣付近というのは南町の横町入口付近を想像すると良いでしょう。大正時代前半ごろまでの新町大通りは、この南町(横町を含む)~上町エリアまでが繁華街であり、旅館や商店はこの大通り沿いに集中していました。そして商店街はすなわち商売人が日常生活を営む住宅街でもありました。それ以外の場所は主に田畑や雑木林などであり、農家の民家がところどころに点在する状況だったのではと思われます。その後、大正10年に国鉄の富高駅(現・日向市駅)が完成するとその周辺に旅館や営業所が出来始め、商店街エリアは次第に北方向へ延伸していき現在の上町や都町の賑わいが生まれました。

ここでいったん江戸期~明治期の富高村の特徴をおさらいしますと「新町を含む富高村は(中略)、新町を除いて、ほとんどが農業地帯であった」(「天領と日向市」p.142)といいます。平部嶠南(ひらべ・きょうなん)の記した「日向地誌」(明治17年完成)によると明治初頭の富高村には商家が120戸、農家が249戸とあり、農業従事者も実はかなり多いことがわかります。ただ、当時の富高は東郷町や西郷村など入郷(いりごう)エリアからやってくる人々の玄関口となっており、この周辺地域においては細島に次ぐ商人の町として認識されていただろうと思われます。

再び街道の話へと戻します。昭和48年発行の「日向市の歴史」を編纂したのは当時日向市役所におられた甲斐勝さんですが、氏はその後さらに研究を続けて新たな知見を得て、3年後に刊行した「天領と日向市」では往還道路の範囲がやや拡大されています。一部引用しますと「富高新町を形成している商店街は、南北に長い往還に沿った町であった(中略)道の両側には松並木が植えてあった。二十二町というと現在の日向市駅前付近から旧国道沿いに南下して、財光寺の五十猛(いそたけ)神社の少し南ぐらいまでであろう。この五十猛神社から南にわずかばかり、往還(おうかん)という地名が残っている。ここから陣屋下町である富高新町のほうへ続く往還の始まりということから起こった地名であろうか。」(「天領と日向市 -日向市における天領の研究ノート-」より)。

「日向市の歴史」内での往還道路に関する言及については旧・富高村エリアのみでしたが、「天領と日向市」では塩見橋の南側エリア、つまり旧・財光寺村の一部までも含まれているのがわかります。また富高村の範囲も「現在の日向市駅前付近」まで、つまり都町付近にまで伸びています。この記載の違いにはそれぞれ理由があると思われ、筆者が僭越(せんえつ)ながら解説しますと、前者においては江戸~明治当時の商店街の範囲で記しているのに対し、後者は古い文献に記された「二十二町」という距離を正確に算出した結果、人家が無かったとみられるエリアにまで街道の範囲が拡大したのであろうと考えます。なお、現在の「メートル法」ではなく、いにしえの「尺貫法」にもとづく「町」(ちょう)という単位は、1町イコール約109メートルであり、22町となれば約2400メートル(2.4キロメートル)となります。


財光寺の山下~往還地区に賑やかな商店街が形成されるのは昭和の戦後以降とみられており、戦前までは農家の家が点在し、広大な田畑が広がるのどかな印象のあった財光寺エリアですが、この「天領と日向市」の記述から、旧富高村地域だけでなく旧財光寺村地域つまり五十猛神社の周辺から塩見橋南詰(かつて渡し場と呼ばれた)までのルートにおいても街道の景観整備つまり道路の整地などが若干なされていた可能性があります。ただし松の街路樹もこの付近からスタートしていたのか、それは定かではありません。「往還」とは道を行き来するという意味の言葉ですが、それが地名として定着していることからも、そこは古くから人の流れが活発にみられた場所だったのだと思います。

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●<「松」に由来する地名>

かつて街道だったと思われる一帯に、松並木があったどうかの痕跡は現在ありませんが、その付近に松にちなんだ地名が幾つかみられます。これは、この付近に松の木が存在した根拠の一つと言えるかもしれません。例えば財光寺の旧道沿いをみますと松原地区の「松原」(まつばら)や往還地区の「松ノ元」(まつのもと)があり、塩見橋を越えて南町から東側の細島方面へ向かうルートを日知屋古地図で確認すると江良地区に「松ノ下」(まつのした)や「下り松」(くだりまつ)、そして曽根地区には「四本松」(しほんまつ/※のちに詳述します)の名前がみられます。


●<松の木の役割>

松の木と言えば海岸沿いに防風林として植えられることもありますが、富高の街道沿いにあったといわれる松並木は、おそらく江戸期の参勤交代に配慮した、景観目的のものだったでしょう。また、見渡す限り田畑が広がる日知屋の土地においてポツンと佇(たたず)む松の大木は重要な「目印」になったり、旅人にとっては松の枝がちょうどよい日陰となり「休み場」としての役目も果たしたことでしょう。しかし江戸の世も終わり、そうした行列が通る機会は無くなりました。松並木の松はいつしか、少しずつ減っていき、明治後半から大正ごろにはもはや数本を残すのみとなっていたのではないかと推察されます。

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(「日向・富高の一本松」検証その3へ続く)

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