【富高地域】地名の由来について

地名の由来編(1)<「迎洋園」(げいようえん)>

「迎洋園」一帯はもともと自然豊かな山でしたが、大正6年に福岡からやってきた綾部市太(あやべ・いつた)氏がそこを苗圃(びょうほ)として開拓、苗木の育成を始めました。ツツジを多く植栽したその山は、そのうち観光名所「あやべ迎洋園」となり、昭和になると毎年4月には「つつじ祭り」と称した一週間~十日間ほどにわたるイベントが大々的に開催されるようになりました。そのイベント期間になると園内では舞踊大会(阪東流、藤間流)、弓道大会に柔道大会、素人のど自慢大会や演芸大会など各種 催し物が開かれたり、周辺に店が立ち並ぶなど賑わいをみせました。迎洋園はおよそ昭和30年代後半ごろに綾部氏後裔(こうえい/子孫の事)の手から離れましたが、その後昭和40年代から50年代にかけては後継会社(宮崎緑地開発、宮交)が祭りを継続しました。そんな「つつじ祭り」も昭和54年(1979年)に終了し、まもなく宅地造成が開始されて現在は住宅地に様変わりしています。

「迎洋園」(げいようえん)の名付け親は、財部彪(たからべ・たけし)海軍大将です。財部大将は都城出身の方で、大正後半~昭和初期にかけて海軍大臣を歴任し、昭和5年(1930年)に開かれたロンドン海軍軍縮会議の際には日本政府全権を務められました。昭和当時の迎洋園付近の土地は、ツツジ園を管理していた綾部氏の名前にちなんで通称「アヤベ」と呼ばれ親しまれていましたが、そうした中で昭和6年(1931年)4月に財部大将が現地を訪れ、その山からの眺望にいたく感動、大将じきじきに「迎洋園」と命名されるに至ったとのこと。当時の軍人さんといえば社会的地位が高く尊敬される存在であり、そのような方に名付けてもらえたのはたいへん名誉な出来事だったと思われます。ところで、なぜこの時期に財部大将は富高町(当時)を訪問されたのでしょう。

昭和4年(1929年)4月、財光寺に「富高海軍飛行場」の建設が開始されました。その直後、この一件に絡む贈収賄事件が明らかとなり、現職の町長が収容されるなど富高町政は一時大混乱に陥りました。

「海軍の富高飛行場は、このような事件をひきおこしてできましたが、兵隊は常駐していませんでした。そこで、県では都城市出身の海軍大将財部彪にたのんで運動をすることになりました。財部大将も富高に来て、兵員常駐についてあっせんを約束しました。その際、綾部市太のつつじ園を見て、『迎洋園』と命名したのも同大将でした。」(日向市役所総務課発行「日向市の歴史」p.386より引用)。

なお財部海軍大将は柔道に造詣が深く、嘉納治五郎氏の設立した「講道館」へ明治21年(1888年)に入門し、心身を鍛錬しました。「散歩考古学・東京の中の宮崎」(松本こーせい・著)によると、財部大将は昭和9年(1934年)財団法人「講道館」の理事に就任、昭和13年には嘉納館長の葬儀委員長を務めたり館長代理になるなど重責を果たされたそうです。

また、財部大将は郷里・都城に柔道場「尚武館」を創設、柔道の普及・発展に大きく貢献されました。

あやべつつじ園だった時代の迎洋園には、たびたび高貴なる方々が訪れています。例えば旧久留米藩主有馬家の当主・有馬頼寧 伯爵(ありま・よりやす/G1競走「有馬記念」名称の由来となった方)、そして戦後の昭和24年6月には天皇陛下(昭和天皇)がご巡幸の途中で来園されています。(参考文献:松田仙峡・著「日向市先賢伝」)。現在の迎洋園1号児童公園の付近には、その天皇ご巡幸の際の来園を記念した石碑および綾部翁の像が残されています。

(終わり)


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地名の由来編(2)<「財光寺」(ざいこうじ)>

わかりやすくいうと「財光寺」は実在したお寺の名前であり、それがそのまま地名として定着したということになります。そのお寺「財光寺」は県営川路団地の近く(塩見橋の南詰付近)、現在の「定善寺」(じょうぜんじ)のことです。

「財光寺」名称については、日向市教育委員会が発行した「よもやま 日向市郷土資料集第1号」に収載されている、小原日悦 住職による寄稿文「定善寺成立について」が詳しいです。やや難しいですが一部を引用させていただきます。

「定善寺は行縢山(むかばきやま)の支院として開かれ、当初は財光寺を公称したものと考えられる。この財光寺の語は現在大字(おおあざ)名として残っているのみである。現在の山寺号が日知屋山定善寺であり、日叡師縁起にも『日知屋村原定善寺』とあるからして、当地は日知屋に含まれていたものであろう。」

「永正元年(1504年)の日守より日妙への『財光寺導師職譲状』があるが、明らかに『日向国総跡認状には定善寺』となっている。又先の日目上人墓地買得の証書には日知屋寺とある。これらを以って思うに山号は初めより日知屋山にして変りないけれども、寺号は初め財光寺であり、後に定善寺と改められたものであろう。その時期について文献的には永正元年(1504年)から大永六年(1526年)の間であるが、恐らくは元弘元年(1331年)※の阿弥陀堂を法華堂と為した時点で改称し、その後 且く(しばらく)財光寺と定善寺とが併称され、定善寺が次第に徹底したものであろう。そして財光寺は地名として残されたものと思う。」

(※ネットのウィキペディアでは「元弘3年」(1333年)とありますが、ここでは原著を尊重し、原文そのままとしました。)

・・・なお、ここに出てくる日蓮宗僧侶・日叡(にちえい)は延慶2年(1309年)生まれ、臼杵郡出身で日向を代表する僧の一人です。日知屋の本善寺や細島の妙国寺など各地に寺を開基、その数は百八十八と伝えられます(「日向市先賢伝」p.1-3)。(終わり)


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